こんな人だと思わなかった!
どうして分かってくれないんだろう?
人が関わるところに必ずと言っていいほどトラブルは起こるものです。
そんな時、皆さんはどうされていますか?
- 家族や友人に相談する
- 気分転換にカラオケに行って発散する
- ひとりで悶々と考える
- 寝たら忘れる
- 自分自身で努力する
などなど。それぞれの解決方法があると思います。
私は悩み事があってもあまり人に相談することができません。
性格的に人に頼るのが苦手であったり、自分の感情を上手く伝えられないということもあります。
そして、一旦悩み始めると頭の中がそのことでいっぱいになり悩みに支配されて、
どうしてだろう?
なぜなんだろう?
のループから抜け出せなくなり、それが長引くことがよくあります。
それでも、そんなループからなんとか抜け出そうとして、多くの本から解決の糸口を見つけようとします。
そんな時に出会った一冊が今回ご紹介する『ヘタな人生論より徒然草』です。
読みたくなったきっかけ
私が40代になったばかりの頃、人生に迷い長いトンネルを抜けられない日々がしばらく続いた時期がありました。
このままでいいのか?という現状に対する不満やまだ来ない将来に対する漠然とした不安。
ちょっとした裏切りや人間関係のもつれから、人間不信にも陥っていました。
それまで自分が正しいと思っていたことが間違っているように感じられて、自分の中の判断基準の軸を完全に見失っていたと思います。
なんとか自分の中のもやもやしたものを納得させたくて、「人生」「人間関係」「悩み」のキーワードで検索しては、本を片っ端から読み漁る日々。
そんな中、『下手な人生論より徒然草』が目に留まります。
『徒然草』といえば、一切のものは常に変化し、永遠に変わらないものなどない。という無常観がベースとなった随筆。
私はこの無常観に少なからず共感を持っていたのですぐに読んでみたくなり、Amazonの「注文する」ボタンをポチッと押しました。
著者『荻野文子』さんについて
著者の荻野文子さんは、上智大学文学部国文科をご卒業後、1985年から予備校講師として活躍され「古文のマドンナ先生」として人気を博した方です。
(マドンナ先生とは、少し時代を感じなくもないですが・・・)
NHK(Eテレ)で放送の『100分で名著』でも徒然草の解説をされていました。
この本を書かれた経緯は
ご自身も年齢を重ね、若さと老いの間で人生に多いに迷われていたこと、
ご自身の仕事の関係上(古文の講師)、徒然草を改めて読み返してみるとそれまでの認識がガラリと変わり、作者の吉田兼好の合理的で論理的な思考やそのバランス感覚にとても共感したからだそうです。
私もこの本を初めて読んだのも40代になったばかりのころ。
同世代としての悩みや物事の捉え方に共感できるところが多く、時折読み返しています。
『ヘタな人生論より徒然草』の概要
こちらは、本書の内容です。
世間の様相や日々の暮らし、人間関係などを”融通無碍な身の軽さ”を持って痛快に描写する『徒然草』。その魅力をあますことなく解説して、複雑な社会を心おだやかに自分らしく生きるヒントにする人生論。
河出書房新社HPより
本の構成
「観る」「つき合う」「捨てる」「暮らす」「高める」「極める」「生きる」の7つのテーマで構成されています。
人生や人間関係において必要不可欠なテーマが並び、目次を開くとあれもこれも気になる項目が盛り沢山です。
現代語訳と著者のエピソード付きで分かりやすい
徒然草の現代語訳に著者なりの解釈や解説を加えた構成。
原文がないと物足りないと感じる方もあるかもしれませんが、私のような古典の超ビギナーにとっては、現代語訳である方が理解しやすいです。
難しいのでは?と敬遠しがちな古文の敷居を低くしてくれて、親しみを感じながら読み進めることができます。
また、著者のエピソードを交えて解説してくれているので、話もすっと入ってきます。
こういうこと自分にもあるよなぁ。と感じる項目が多々あり。
各々に思い当たる『徒然草』がある
ケース1:風に散る花のように人の心は移ろいやすい
風もまだ吹き終わらないうちに散り落ちてしまう花のように、移ろいやすい人の心に、馴れ親しんだころの年月を思うと、しみじみと聞いた言葉のひとつひとつはどれも忘れはしないけれども、自分の世界から遠のいた人になってゆくこの世の習わしこそは、死んだ人との別れにもまして悲しいものである。(第26段)
引用:ヘタな人生論より徒然草
辛い別れがあった時、急に孤独感に苛まれることがあります。
その相手がとても大切な人だったら、なおさら喪失感は大きいです。
出会ったばかりの頃や親密だった日々を思い出しては憂いたり、なんでこうなってしまったのか?と嘆いてみたり。
失ったことで余計にその頃の思い出が煌びやかに見えてしまうものです。
でも、出会った頃と同じような関係でいつまでもいられる相手が本当にいるでしょうか?
学生時代、仕事を始めてから、今まで生きてきたこの何十年もの間、数々の人に出会ってきました。
その時々で濃密な時間を過ごした人も少なからずいる訳ですが、そのうちのいったい何人の人が今も変わらず同じような関係でい続けられているか。
私はほぼゼロです。
今でも続いている相手とでも少なからず関係性は変わっています。
人と人とが付き合っていく中で、時間と共にお互いの感情は変化していきます。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、お互いの嫌な部分も見えてくるでしょう。
自分にも相手にも他との出会いの数は増えていき、そちらのほうが新鮮で楽しく感じられることもあります。
学校を卒業したり、職場が変わったり、住む場所が変わったり、物理的な距離が生まれれば自ずと心の距離も生まれてしまうものです。
女性なら、結婚や出産で生活が大きく変わり、ステージが変われば話題にズレも生じてきます。
環境や状況が変われば、お互いのコミュニティも変化してしまうのは仕方がないことです。
でも、だからと言って誰とも付き合わない。としてしまえばあまりにも味気ない人生になってしまいます。
人の心は移ろいやすい
そういうものだと思っていれば、変に依存することもなく、裏切られた!などと思うこともない。
それが自然の道理であって当たり前のことなんだと納得させられた一段です。
ケース2:人を質す愚かさ、わが身を正す大切さ
すべてにおいて過失がないようにと思うなら、何事にも誠意があって、人を分け隔てせず、誰に対しても礼儀正しく、言葉数が少ないのに越したことはない。老若男女を問わず、みなそういう人がりっぱなのであるが、とくに、若くて容貌の美しい人が、言葉遣いのきちんとしているのは、いつまでも忘れがたく、好感をもつものである。すべての過失は、もの馴れた様子で上手ぶり、得意げな様子をして、人を侮り軽んじるところに原因があるのだ。(第233段)
引用:ヘタな人生論より徒然草
この段を著者は『人を質す愚かさ、わが身を正す大切』さと解釈されています。
すべての人間関係のトラブルは相手を攻め自分を正当化するところから生まれると。
私にも大いに思い当たる節があります。
これは最近もあった話です。
私の職場の上司とは、一緒に仕事をするようになってもうずいぶん長くなります。
概ね良好な関係で楽しく仕事をさせていただいているのですが、唯一どうしても譲れないことがあります。
それは、やると言ってやらないところ。
たくさんの人から頼られ、なんでも引き受けてしまう性格ゆえ次から次へと仕事が舞い込んでいつも余裕のない状態。
決して暇にしている訳ではなく、忙しすぎて手が回らないということもよく分かっている。
でも、私としては不満が募ります。
例えば、ある仕事を始めようと約束をします。
なかなか動き出す気配がないのでお尻を叩きます。
でも、言ってもやりません。何だかんだとかわされます。
言わないと更にやらない。
あまりしつこく何度も言いたくないので、自ら動き出すまで我慢します。
すると、そんなことは忘れてしまったかのように別の仕事を始め、私との仕事をそっちのけで他ばかり優先されている気分になります。
なので、またお尻を叩く。
言う→言わない→我慢する
このループが何度も続き、気がつけば数ヶ月が過ぎている・・・。
そしてある日、何かをきっかけに突然爆発。
何か月も放っておくなんてありえない!
何度言ってもやらないなんて信じられない!
できないのに何でも引き受けなければいい!
私はカッとなりやすい性格なので、爆発したときの態度は恐ろしいようです。
争い事が嫌いな上司は反論してこないので沈黙の期間がしばらく続き、余計にモヤモヤが募り、心が疲弊して諦めに似た気持ちで終焉を迎える。
そんな戦いを何度も繰り返してきました。
それだけのエネルギーを使っても何も変わらず、嫌な気持ちが残るだけ。
そうやってまくし立てる時は大抵、私こそが正しくて、相手が間違っている。
相手こそが質すべきだと言う気持ちで言っているとハッと気づきました。
私は自分の考えでまくし立てますが、上司には上司の考えや言い分があるはずです。
人は変えられないけれど、自分なら変えられる(かもしれない)。
まとめ:人間関係に悩むあなたへ
本書は人間関係について広く書かれた本なので、きっと皆さんそれぞれにハッとする一段、共感できる部分があると思います。
700年以上前に書かれた本ですが全く色褪せておらず、むしろ今の時代にも生かせる考え方です。
自分の日々の出来事に当てはまる捉え方のヒントがきっとあるはず。
古人の知恵に倣って、バランス感覚を保ちながら世の中を身軽に歩いていきたいものです。
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